園芸に関する年表(日本)

時代年代 事項
縄文時代前4000年頃福井県浜目塚から、ヒョウタン(アフリカ原産)や緑豆(インド原産)が出土したことから、食用植物の栽培が始まった可能性あり。
前1200年頃埼玉県岩槻市の貝塚から、ゴマ、ソバ、ウリ、アズキなどが出土している。
前4世紀頃西日本で水稲栽培が本格的に始まる。
弥生時代3世紀仲哀天皇紀48年、『魏志倭人伝』に当時の日本の動植物についての記述があり、養蚕が行われていたことが伺われる。
古墳時代5世紀雄略天皇紀16年雄略天皇が、養蚕に向け、桑栽培に適した国県に桑を植えさせる。(日本書紀)
6世紀藤ノ木古墳から出土した花粉のうち、ベニバナが多かったことから、中央アジア原産のベニバナが日本でも栽培されていたことがわかった。
飛鳥時代7世紀・推古天皇紀16年日本の「つばき」が、隋の煬帝の詩に「海榴」として登場。
・天武天皇紀13年吉野の人、宇閉直弓が白椿(本来の赤花だが突然変異)を献上。(日本書紀)
・持統天皇紀7年桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪青を植えることを全国に進める。
奈良時代8世紀・和銅5年太安万侶が『古事記』を撰上し、そこに78の植物名が登場する。
・養老2年『養老令』が制定され、宮内庁に典薬寮ができ、ここで本草(本草集注)を読ませ、諸薬およびその栽培・採取法を学ばせた。
・養老4年『日本書紀』成り、そこに81の植物名が登場。
・天平2年大伴旅人が観梅の宴を開き、その折の和歌32首が『万葉集』に収められている。
・天平5年『出雲風土記』成る。残存する5風土記のうち、植物名が112品と最も多い。
・天平17年この日の正倉院文書に、カブ、ダイコン、チシャ、フユアオイ、ウリ、トウガン、ナス、サトイモ、ハス、カラシナ、ショウガなどが登場している。
・天平勝宝3年『懐風藻』成る。705年没の葛野王の詩文に梅が登場。また、菊も初出する。
・天平宝字3年東大寺普照法師の進言を受けて、畿内七道の駅路の両側に、夏の日ざしと飢えをしのぐための果樹を植えさせる。
・延暦4年大伴家持没。大伴家持編纂『万葉集』には170の植物が登場し、登場回数は萩、梅、松、藻、橘、菅、薄、桜、柳、梓の順に多い。桜と山吹の八重咲き品種やツツジも存在。菊と牡丹は登場しない。
平安時代9世紀・延暦24年最澄が唐から茶の種を持ち帰り、近江の坂本で栽培する。
・大同1年空海が唐から牡丹を持ち帰る。
・大同2年時の太政官が、七道諸国に桑と漆を植えるように令する。(類聚三代格)
・弘仁3年嵯峨天皇、神仙苑に行幸して花宴。(桜の)花見の最古の記録。
・承和1年清涼殿で萩花宴をひらく。(続日本後紀)
・寛平8年清涼殿で菊花宴を開く。
・寛平9年素性法師が詠んだ和歌にヤマトナデシコが初出。
10世紀・延喜5年紀貫之ら、勅命により『古今和歌集』の撰述を開始75の植物が登場。『万葉集』に比し、梅が激減。アサガオとバショウが初出。
・延喜11年後院より醍醐天皇に七草の若菜を供す。(公事根源)七種菜の最も古い記録。
・延喜18年深根輔仁が勅を奉じて撰述した『本草和名』(別名:『倭名本草』)なる。日本最古の本草辞典。
・天慶2年極楽寺で菊花宴が開かれる。同所では翌年、翌々年にも開催。
・天禄2年六月『蜻蛉日記』の本月条に牡丹の花が描写されるされた。九世紀初頭薬用として導入された牡丹が園芸品になっていたことが伺われる。
11世紀・長保3年、この頃成立と推定されている『枕草子』には116品の植物が登場し、桐、宿木、ほほづき、夕顔などの名が初出。石竹(からなでしこ)の普及がわかる一節あり。
・寛弘4年、この頃成った『源氏物語』に見える植物は114品で、菊、唐なでしこ、芥子、紫檀、蘇芳、栴檀、丁字、浅香(沈香)など、万葉集以降に大陸から渡来した植物がある。
12世紀・治承4年源頼朝伊豆で挙兵、10月鎌倉に入る。鎌倉の開発が進み、自然がかく乱された。これにより、伊豆・房総にしか分布しないオオシマザクラと多種との自然交雑が進み、桜の新品種が生まれやすくなったと考えられる。
鎌倉時代12世紀・建久2年宋に渡った栄西が帰国の折、茶の種子を持ち帰り、平戸と筑前国背振山に植えるという。のち、京都と宇治にも移す。茶の本格的栽培の始まり。同時に宋の天台山から持ち帰った菩提樹は、筑前国香椎神社に植える。
・建久5年と翌年、源頼朝が三浦三崎をたびたび訪れ、桃の御所、桜の御所、椿の御所を設ける。
・建久6年前出香椎の菩提樹を奈良東大寺に分植。日本の寺院に植えられている菩提樹は中国原産のシナノキ科の落葉樹。(釈迦がその木の下で悟りを開いたのはインドボダイジュで、クワ科の常緑樹。)
13世紀・建暦元年栄西が『喫茶養生記』を著述。茶と桑の保険的効用を説き、茶の名称・形状・採取法を記述する。
・建保元年12月16日、『明月記』の本日条に「長春花」の名が出る。長春花は南中国原産のコウシンバラで、この頃すでに渡来していたことがわかる。
・貞応2年7月9日、「ばせう」が鎌倉薬師堂谷辺の寺で開花(吾妻鏡)。この頃には芭蕉が栽培されていた。
・寛喜2年『明月記』において、4月12日に八重のツツジが初出。6月20日には「南天竺を植える」旨記され、ナンテン栽培の最古の記録。
室町時代14世紀・貞和2年・正平元年天台座主慈円の歌集『拾玉集』成る。その中にハナショウブの名が初出する(湯浅1995)。
・貞治6年・正平22年、この頃の作とされる四辻善成の源氏物語注釈書『河海抄』に、春の七草は「薺、繁縷、芹、菁、御形、須々代、仏座』と解説する。正月七日に七種の菜を食する風習は中国に起源し、平安時代には伝わっていたが、その種を挙げたのは初めて。
・康暦2年・天授6年丹波康頼の名を偽って発刊された『康頼本草』にオモトの名が初出。
・明徳3年・元中9年南北朝合一。室町時代に日本独自の花卉文化の発展が始まる。とくに著しいのは椿と桜で、高木性花木の品種改良として世界に先駆けるもの。
15世紀・文安元年『下学集』成る。水仙、木犀、銀杏の名が初出。
・文明6年、文明本『節用集』成る。そのなかに「鉄線花」があり、テッセンがすでに渡来していた証拠とされる。
・文明13年、一条兼良没、その作とされる『尺素往来』には庭園用草花、花木114品が四季に分けて挙げられ、その中には郁李(ニワウメ)、金銭花、沈丁花、水仙花、鳳仙花、銀杏、海棠(ミカイドウ)などがある。
・文明16年5月21日中院通秀の『十輪院内府記』本日条に、「西瓜五果」を贈られたとある。
・延徳3年3月24日『山科家礼記』の本日条に、エビネの名が初出。
・明応3年越後で実綿が商品として流通していたという記録あり。
・明応5年5月3日、本日付の識号をもつ通称『明応5年節用集』で、それまでは槻(ツキ)と呼んでいた木に対し、ケヤキの名が初出。
16世紀・永正7年4月『永正年中記』に三河木綿の記録あり。
安土桃山時代天正・5年1月17日付けの華道書『仙伝抄』に「ほうせん花、むくげ、をもと、さるとりいばら」などの和名が見える。
・12年堺商人の茶会記録に、桜草の名が初出。
・天正年間肥後八代から紀州有田にミカンの苗木が移植される。
慶長・元年、薩摩国指宿郷で初めてタバコを栽培するという(薩摩煙草録)
江戸時代慶長・8年イエズス会宣教師編『日葡辞書』にニガウリ、ヘチマ、タウマメ(ソラマメ)、タウキビ(トウモロコシ)、ニンジンの名が初出。
・9年2月4日徳川禁令考三九九二において、東海道・中仙道・東山道の一里ごとに塚を築き、その目印に榎を植え、また街道の左右には松を植えさせる。
これ以前に『本草綱目』が渡来したと考えられる。
・10年トウガラシが朝鮮より対馬に渡来と『対馬編年略』に記す。
・同年琉球那覇の明進貢船事務長・野国総管が中国福州からサツマイモ苗を持ち帰り、以降サツマイモが琉球に広まる。
・12年林羅山が長崎で『本草綱目』を入手し、家康に献じた。以後家康の座右の書となる。
・14年島津家久が家康に琉球産の仏桑花(ハイビスカス)ともり花(マツリカ)を献じる。
・16年10月琉球に駐留していた薩摩藩士がサツマイモを持ち帰る。
・十三七(サンシチソウ)渡来。
・後陽成天皇の代(1586~1611)に椿の流行が始まる。
・17年林羅山、『多識編』草稿をつくる。(『本草綱目』所収品の漢名に和訓を付したもの)
・19年4月28日家康、駿府にあった『本草綱目』を江戸へ移し、秀忠のもとに置く。
元和・将軍秀忠は花を好み、江戸城内の吹上花園にいろいろな花を植えた。特に好んだのは椿であった。
・4年まで滞日したスペイン商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』に「日本にはイチジク、ブドウ、モモ、アンズ、ナシがある。文禄4年にメキシコから持ち渡られたオリーブが長崎にあるが、順応していない。同時に渡来したマルメロは豊富な収穫がある」と記載。
寛永・2年江戸上野の寛永寺創建に着手。境内に吉野の桜を移植する。(上野の桜の始まり)。
・同年相模甘縄藩主松平正綱、日光杉並木の植樹を始める(一説に寛永4年)延長40km、その後20年余をかけて完成。
・4年琉球よりスイカの種子が薩摩に渡る。
・7年林羅山『多識編』古活字本刊。
・同年京都誓願寺の安楽庵策伝が『百椿集』を著す。(園芸書で最も古いとされる)
・8年1月林羅山編『[新刊]多識編」、整版本刊。
・11年烏丸光広[百椿図』の自序を記す。
・12年松平伊賀守忠晴『百椿図』を作る。序は林羅山、100図。
・14年『本草綱目』の最初の和刻本刊、京都・野田野次右衛門会板。
・15年10月29日幕府、江戸に南北二薬園を開設。南薬園は麻布広尾、北薬園は現音羽護国寺。のち南薬園には江戸城にあった御花畑もここに移され、麻布御花畑と称された。
・17年幕府、京都鷹峯に京都御薬園を開く。江戸の南北良薬園にならい、ほぼ同時にその北にも薬園を開設する。
・寛永年間、江戸駒込の高木嘉平次、高麗艾(ヨモギ)を栽培し、普及させる。(もとは朝鮮より送られた陶器の詰物に使われていたもの)
・寛永年間、秋海棠(シュウカイドウ)が中国より伝わる。
・元和・寛永年間椿が流行。徳川秀忠が愛好したからという。
正保・三段花(三丹花)正保年間の初めに琉球より薩摩に渡る。
・2年松江重頼編『毛吹草』七巻、刊。その巻二「四季の詞」と巻四「名物」(諸国名産品)に動植物を数多く載せる。本書に「福寿草」(元日草)の名が初出。
・4年3月那波道円『桜譜』の自序を記す。桜譜の最初で、15品を載せるが図はない。
・大和国吉野郡の住民が、大隅国屋久島の杉(ヤクスギ)の種子を求め、吉野郡に蒔く。これが吉野杉の初めという。
・「正保年中以後渡リ来ル草木」として『地錦抄付録』が挙げる品は、南京梅(?梅)・琉球ツツジ・茶蘭・シュロ竹・金灯草・風車(カザグルマ)・玫瑰(ハマナス)・らうさ(バラ)・霧島ツツジ(薩州)・連玉(レダマ)・あんじやべる(カーネーションか)および菊(楊貴妃・御愛・玉牡丹・鵝毛・太白)。ただし、風車は日本に野生種があるので、それとは異なる園芸種であろう。?瑰も中国でハマナスから作られた園芸種と考えられる。
・正保年間にサボテン(仙人掌)渡来(異国草木会目録)。
・正保・慶安の頃、薩摩藩主、枳殻(きこく)を唐山(中国)より得て長島(天草の南にある島)に植え、苗木を増やし、多くの果実を得る。
慶安・元年4月17日日光街道の杉並木の植樹が完了。
・2年2月、会津藩、有用草木の制を定め、第七木のみだりな伐採を禁じ、要七木・八草・四壁竹木の栽培を奨励。第七木は「漆、桑、明檜(アスナロ)、杉、槻(ケヤキの1品種)、松、黐木(モチノキ)」、要七木は「榧(カヤ)、胡桃、朴木(ホオノキ)、桐木、栗、棒栗(ハシバミ)、梅」、八草は「牡丹、芍薬、蓮、桔梗、蕨、山葵(ワサビ)、独活(ウド)、砥草(トクサ)」、四壁竹木は「李(スモモ)、梨、柿、竹」
・4年9月李東垣編・銭允治校『食物本草』10巻の和刻本刊。(江戸時代に和刻された唯一の中国食物本草書。)
承応・元年幕府、尾張藩に薬種39品を下付する。それを植えたのが御深井御薬園の起源と考えられる。
・2年『本草綱目』の和刻本刊。
・3年8月15日幕府、小石川白山の地を上州館林城主松平徳松(のちの徳川綱吉)に下屋敷として与える。やがて小石川植物園となる。(現在東京大学の小石川植物園)
・同年明の福州の僧侶、隆琦すなわち隠元禅師、長崎に渡来。このとき渡来した豆を隠元と言い伝える。(これはフジマメで、インゲンではない)
明暦・2年この頃、日向国霧島山産ツツジの面向(メンコウ)・無三(ムサン)・唐松の三奇品が江戸に到来。正保年間に薩摩から大阪・京都へ来た五品のうち、富士山・麟角の二品は天皇のもとに留め、残る産品が江戸に入り、やがて染井の伊藤伊兵衛家に収まる。
・3年2月『本草[頭書]本草綱目序列』3巻、刊。
・3年3月[本草原始合雷公炮製』12巻、和刻本刊。
万治・元年3月28日、江戸染井の初代伊藤猪兵衛、没。子孫は代々伊藤伊兵衛を名乗る。
・2年老中稲葉正則は江戸参府の蘭館長ワーナヘルが江戸を離れるとき、ドドネウスの『草木誌』について「挿画の草木花卉甚だ美なるにも拘はらず、印刷小に過ぎ構図未だ巧ならずとして、之を返却し、更に大なる本にして尚美はしく画いた本を寄越してほしい」という。
・同年『本草綱目』(「[新刊]本草綱目」=「篆字本本草綱目」)刊。
・同年薩摩藩、温暖の地である山川郷福元に竜眼(リュウガン)を植える。
寛文・元年狩野探幽、本年より『草花生写図』(京都国立博物館蔵、70品余)および『草木花写生図鑑』(別名『果蔬草花図鑑』、東京国立博物館蔵、200品余)の筆を取りはじめる。いずれにも、園芸植物とともに、ヤエムグラ、ヤブニンジン、ノビル、オオバコ、イタドリなどの雑草が数多く描かれている、また、カボチャの果実、トマト、ゼニアオイ、ビョウヤナギ、レダマ、シュンギクなどの図もある。
・4年8月水野元勝、自著『花壇綱目』の序を出す。園芸全般にわたる書物の嚆矢で、よく寛文5年序の改訂本など数種類の筆写本があるが、出版は天和元年。
・6年2月2日、「諸国山川掟」を幕府が公布。それまでの乱開発によって国土が荒廃してきたのを憂えて、過剰開発を禁じ、また「川上左右之山方、木立無之所ニハ、当春ヨリ木苗ヲ植付、土砂流レ落ザル様、仕マツル可キ事」と命じる。
・同年7月中村惕斎『訓蒙図彙』の自序を記す。序目2巻・本文20巻・計2巻。巻16から20が植物(米穀、菜蔬、果?、樹竹、草花)356。ヒマワリ、ヒナゲシ、ギボウシ、イワレンゲなどの図が初出。刊行はこの年か翌年。(日本最初の百科事典)
・7年伊藤伊兵衛政武、江戸染井に生まれる。
・同年ジャワ産の紫ザボンが長崎に伝わる。
・8年7月12日狩野探幽『草花生写図鑑』にトマトの実を描、「唐なすび」の名を添える。トマト渡来の最も古い記録。当時は観賞用。
・9年松前藩、幕府に落葉松寄生(えぶりこ)を献上。「えぶりこ」は担子菌類のキノコで、古くから薬用とされた。
・10年会津藩、現「会津松平庭園」内に薬園を設ける。
・11年香椿(チャンチン)、中国より渡来。
・地錦抄付録に「寛文年中渡ル品々、扶桑花(ハイビスカス)・黒船ツツジ・あらせいとう(ストック)・唐ツツジ・てっせん・大きりしま・オランダ石竹(カーネーション)」とある。(テッセンの渡来は室町時代ともいう)
享保・江戸四谷の永島某が尾張国瀬戸の陶工に縁付の植木鉢(白鍔鉢、黒鍔鉢)を作らせる。(国産初の陶製鉢)
・永島の門人、朝比奈某は舶来の樹木を冬も生かしておくために、床下に窖(むろ)を作りはじめる。(温室の前身)
寛保・1年『辛酉阿蘭陀本草之内御用ニ付承合候和解』に「大阪の花屋辺ニ葉牡丹ト名付申候」の記述あり。

参考文献:日本博物誌年表(磯野直秀2002年6月発刊)