肥後におけるキク栽培のおこりについての確かな古文献は見当たりませんが、始祖と目されるのは、第八代肥後藩主細川重賢公の養菊である。彼は博物学に卓越した才能を発揮し、御薬草蕃滋園には、和漢洋薬草木829種が植栽され、菊花数10品が植えられた記録がある。文政二年(1819)、秀島七衛門(『養菊指南車』)によって、肥後菊栽培の基礎が築かれる。明治10年、西南役の戦乱は肥後の園芸に大きな影響を与えた。当時の栽培者伊東平士らはキク苗を市外に分散させ、辛うじて絶滅を免れたと伝えられている。明治20年には同志により「愛寿会」が結成され、肥後菊栽培が本格化した。
(誠文社新光堂刊「肥後六花撰」肥後六花保存会編集、郷土史家村山豪、熊本大学教授栗屋強執筆)
(監修:小笠原左衛門尉亮軒)